慰霊の日とは?銀行や公共機関はどうなるの?

沖縄の慰霊の日ってなんのためにあるのか?このブログはカメラネタが多いですが、今日は慰霊の日について解説します。

1945年6月23日に第32軍司令官牛島満大将らが自決した日を慰霊の日と定めています。実際は司令官が自決した後も戦争は続いたんですけどね。各地でまだまだ人が死ぬような戦闘は繰り広げられていましたが、6月23日を沖縄戦(Battle of okinawa)の組織的戦争が終結した日として琉球政府が定めた日でした。

日本に復帰する以前までは公休日扱いでしたが、本土復帰後は日本の法律が適用されたので正式な公休日ではなくなりました。私も小学生ごろまでは学校で慰霊の日の黙祷を捧げ、歌を歌ったりした記憶があります。1991年に自治体が休日条例で慰霊の日を沖縄限定の休日と定められました。(国の機関は休日扱いなし)

銀行などの会社や公共機関は通常営業です。

糸満市摩文仁について

沖縄戦の終結の地とされている糸満市の摩文仁の丘は、国定公園として定められています。

慰霊の日には糸満市内や市役所から、一般市民らが参加できる「平和行進」が行われ摩文仁の丘まで歩いていきます。

公園内には平和記念公園、平和記念資料館、平和の礎などがあり、沖縄県民なら誰でも一度は社会見学などで訪れる場所です。また、平和祈念公園から2.5kmほど南西の米須には霊域が存在し、各都道府県の慰霊碑や最古の慰霊塔などがある。

そこには沖縄県でも最もメジャーなサーフポイント「スーサイド(米須海岸)」があります。県外から訪れるビジターの方も多いですが完全な霊域ですので、ゴミなどを捨てないようにしてくださいね。

私は過去に何度もここで霊的な体験をしていますし、霊感が強い人は米須海岸に曲がる道から無理無理と言う人もいらっしゃるそうですよ。

海はとても綺麗です。

総理大臣は何のために来るのか?

戦没者追悼式に出席するためと、1分間の黙祷を捧げにいらっしゃいます。

まともな県民なら戦没者追悼式がどういうものか知っているので、総理大臣が壇上に上がった時に声を荒げることなんて絶対にしません。

この日は慰霊の日。県民にとって何よりも重要な日ですからね。

なぜアメリカ大使が来るのか?

戦没者追悼式に出席するためです。

犠牲になったのが県民、沖縄に働きに来た外国人の方々、日本兵、アメリカ兵。家族を故郷に残して、国のために命を捧げた人が大勢いることを忘れてはいけないでしょう。

なぜ天皇陛下はご出席されないのか?

忘れてはならない日とされている慰霊の日ですが、天皇両陛下はご出席されていません。理由は分かりませんが、過去に「ひめゆりの塔事件」というものがありました。

慰霊の日の事件ではないですが、天皇陛下が皇太子時代にひめゆりの塔を訪れた際、左翼団体に火炎瓶を投げられたことがあります。幸いけが人は出なかったようですが、信じられない事件ですよね。詳細を知りたい方はググってみてください。

慰霊の日の戦没者追悼式には参加されませんが、別の日に天皇陛下を含む皇族の方々が献花や祈りを捧げに訪れています。

県民にとってはどういう日か?

戦争を忘れないための日ですね。

今年は翁長県知事がスピーチして色々と批判されてますが、それは別にどうでもいいんです。また4人に一人が犠牲になったとか20万人が犠牲になったとかいう話も個人的には意味がないと思う。

私が祖父から聞いた話では、「戦争は人が死んだ数だけが報道されるけど、生きてる人も死んだ人もみんな死んだよ」って言ってました。戦争では人間が人間でなくなるってことを言いたかったんだと思う。

沖縄戦では4人に1人が亡くなったと言われてるけど、2歳の子供が親兄弟親戚みんな亡くしたって方もいるんです。また赤ん坊を背負いながら息絶えた母親もいた。妊婦さんもいた。生まれたばかりの赤ん坊を見捨てなきゃいけない人もいた。そして泣きながら衰弱して亡くなる子達もいっぱいいました。

いま記事を書きながら涙が止まらない。

忘れてはいけない日

戦争は鉄砲や爆弾が飛んでくるだけじゃない。

時給自足で生活していた琉球の土地、食料を全て兵士に取られ、労働力も全て取られます。何にも食べるものがないからソテツを食べて死ぬ人もいた。餓死する子供たちやご年配の方もいっぱいいました。挙げ句の果てにはスパイとされ民を守るはずの日本兵に殺された方も沢山いらっしゃいました。

これも戦争。

家族を養っていかないといけない男達。きっと中には家族が病気の方もいたでしょう。それでも沖縄戦が始まる前から全ての生活を犠牲にして穴を掘ったり壕を掘ったりしなければいけなかった。

戦争が始まってからは親、兄弟、親戚、友達もしくは全員が犠牲になり、そんな中で生き残った人たちは終戦後、ようやく捕虜から解放され家があった場所に帰ったらフェンスで閉ざされ中には入れない。

生活、家族、家、地域が全部犠牲になったんです。それから70年後の今でも沖縄にはフェンスがある。今はそれが日常です。

それが異常だと教えてくれるのが慰霊の日なんですよね。

家族に感謝する日でもある

その時代を生き抜いてきたおじい、おばあからバトンを受け継いで今度は私が子供を育てる番になった。戦前戦時戦後を生き残ってくれた祖父と祖母に感謝せずにはいられない。必死の思いで命のバトンを繋いできた思いを無駄にはできない。

「戦争は二度としたくない」

その言葉がどれだけ重いかなんて私には計れないけど、もしも明日戦争が始まることになったら、私たち男は妻や子供たちを置いて戦地に行かなければならない。

この子達を残して死ぬかもしれない。妻や子供たちだって生き残る保証はない。1歳の娘だけが生き残り、家族親戚が全員死んでしまうかもしれない。私だけが生き残ってしまうこともあるかもしれない。死んだほうが楽だったと思う人生が待っているかもしれない。

それが現実に起こったのが沖縄戦。

基地がある、20万人が死んだ。それも大事なこと。でも一番は平和を願って犠牲になった人たちを思い出すことだと思う。戦争の辛さは忘れたいけど悲惨さは忘れてはいけない。こうして家族が揃ってご飯を食べられることって幸せだなぁと思うわけです。

私たちは戦争を知る世代ではないけど、祖父や祖母から聞いた話は伝えていく必要がある。

だから今日ブログに書きました。もし良ければ、あなたの体験をコメント欄やFacebookで残してください。私たちは私たちができる形で思いを形にしていきましょう。

  • この記事を書いた人

比嘉研仁(ヒガシーサー)

沖縄在住2児の父。長男が産まれる前に脱サラして夫婦で子育てセミリタイアを実践。趣味のカメラとブログを通じて、家族の思い出を「良い写真」と「テーマを絞ったフォトブック」にすることで一生の宝になることを実感しています。電子書籍「いいねを呼び込むiPhoneコンデジ写真術」は一眼カメラじゃなくても家族の思い出を美しく残せる教科書としてAmazonジャンルベストセラーにも輝きました。ブログでは、スマートフォンやカメラを使って家族の思い出を、テクニックやアイデアを交えながらフォトブックや写真に残す方法を紹介しています。